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卒業生からのメッセージ
天領酒造株式会社上野田 又輔氏 上野田 美奈子氏
Matasuke Uenoda
Minako Uenoda -
「酒をつくり、まちをつくり、人をつくる」
上野田社長ご夫妻が語る、345年の蔵とご縁の物語
「高校時代は、とにかく競技スキーに打ち込んでいました」と振り返る上野田社長。ところが当時の愛知高校にスキー部はありません。「スキーの登録をしてくださったのがアーチェリー部の先生で、『登録してやるから、お前アーチェリー部に入れ』と(笑)。アーチェリー部に所属しながら、メインは競技スキーという生活でした」。高校2年生ではインターハイ・国体に愛知県代表として出場。2月・3月は大会続きでほとんど学校に行けないなか、「愛知高校からは多大なご支援をいただきました」と感謝を口にします。その実力は本物で、実業団スキー部から誘いの声がかかったほどでした。
上野田社長にとって、もうひとつ、高校生活で忘れられないのが下宿生活です。下呂の小さな中学校から単身名古屋へ。「人脈も経験も、この町で過ごすより広がるだろう」という思いからでしたが、入った下宿は、なんと東海高校の生徒ばかりが暮らす下宿。「たまたまその下宿の最後の入居者だったんです。周りは全員東海生。だいぶレアでしたね(笑)」。高1から高3まで、洗濯も身の回りのことも全部自分で。「スキーそのものより、下宿の思い出のほうが大きいですね」。
一方の奥様は、愛知淑徳中学・高校から愛知学院大学歯学部へ進学。「私はもう、ひたすら勉強と部活でした」。実家が歯科医院で、幼い頃から父の姿を見て育ち、「全然ブレることなく歯学部に行くんだと思っていました」。そして偶然にも、奥様もまた根っからのスキーヤー。お父様の影響で幼少期からスキーに親しみ、中学・高校・大学とずっとスキー部という筋金入りで、全日本歯科学生体育大会のスキー部門では見事優勝を果たしました。
学業においても大変な努力を重ねられ、歯学部を首席で卒業するなどの輝かしい成果を残されました。そんな奥様の一番の思い出は6年生の臨床実習だといいます。「10人ほどの班で、朝大学に入って、夜中を越して朝方4時まで症例検討。目にクマをつくりながら2週間くらい研究に没頭しました。でもそこですごく仲が深まって、みんなで一生懸命勉強して、国家試験に向かって。人生でこんなに勉強したことはないというくらい勉強して、ありがたいことにみんな合格したんです」。
その仲間たちとは、それぞれが家庭を持った今も連絡を取り合う仲。「みんな仕事が一緒なので、本当にいい友人関係が続いています」と、充実した学生時代を振り返ります。
同じ愛知学院に学びながら、在学中は一度も出会わなかった二人。その縁を結んだのは、上野田社長の高校の同級生「安藤さん」でした。「愛知高校の入学式で、クラスで一人ずつ自己紹介をするんです。そうしたら安藤というのがいて、『僕はスキーが得意です』と。『お前もスキーか』なんて言っていたら、彼は後に愛知学院大学歯学部へ進学して」。上野田社長と高校3年間スキーを共にした仲間が、今度は大学6年間、歯学部スキー部で奥様と一緒に滑ることになったのです。「その主人の友人の先輩にしごかれて、頑張りました」と奥様は笑います。
そして年月が流れ、その安藤さんの結婚式で二人は出会いました。後になって振り返れば、学生時代には同じ大会に出場していたり、奥様が中学・高校時代、下呂市近くの鈴蘭高原のスキー大会に何度も来ていたり、出会う前からずっと近くにいたことがわかったそうです。お二人が幼少から打ち込んだスキーの縁が、時を経て一本につながった瞬間でした。
東京農業大学醸造学科を卒業した上野田社長は、大手食品メーカーに入社し、東京でスーパー担当の営業に奔走します。「毎日ぐるぐる回って、ひたすら揚げ物を揚げていました。新入社員の中で一番揚げたんじゃないかという自負があります(笑)」。残業120時間も珍しくない過酷な日々に疑問を持ち始めた社長は、一大決心し単身海外へ。行き先は、下呂市の姉妹都市であるフロリダ州ペンサコーラ。様々な縁を頼り、2006年、単身アメリカへ渡りました。
フロリダ州でもアラバマ寄りの南部。日本人はほとんどおらず、アジア人差別のような扱いを受けることもありました。「ただ、ちょうど2006年は日本食ブームで、至る所に日本食レストランができていた。だから僕は、とにかく『日本人』であることを前面に出そうと決めたんです。何か聞かれるたびに日本の食のことを話して──気づいたら、自分の家のことを喋っているんですよ」。すると、それまで冷たかった人たちが手のひらを返すように言いました。「お前は日本人だったのか」と。
「日本の食文化に助けられた、というのが本当に大きくて。ただ、飲みに行って自分のことを聞かれても、『上野田』や『天領』なんて全く伝わらない。英語が話せない当初は『トヨタ』『ホンダ』と名乗っていました(笑)。それを繰り返していると、だんだん悔しくなってくるんです。いつかは『天領』の名が海外でも通じるようになったらなあ、と」。その頃から「天領酒造を継ぐ」という考えが、心に宿り始めました。
Pensacola State Collegeを卒業後は、就労ビザを取得して現地の酒類問屋へ。実は天領酒造が2005年頃からお酒を輸出していた、その問屋でした。やがてビザの期限が訪れ、帰国後にいよいよ家業を継ぐ道へと進んでいきました。
外に出たからこそ、自分の家の価値を再発見できたんです。 ― 上野田又輔社長
結婚を決めたとき、下呂で暮らすことになるのは早くから分かっていました。「若かったので、『温泉入り放題でしょ』くらいの、ワクワクのほうが勝っていました(笑)」と奥様。とはいえ、老舗の蔵元に嫁ぐ暮らしには驚きの連続でした。「地域の神事や献酒の文化、お正月は家族だけで過ごせず、お寺へ行ったり蔵人さんを含め大勢ので集まったりと、びっくりしたこともありました。──もう慣れましたけど(笑)」。
大きな壁もありました。かつての女将は、酒造り職人である蔵人さんの生活を切り盛りする役目でしたが、今は蔵人さんを社員として通年雇用する時代。伝統的な「女将の仕事」がなくなった転換期に嫁いだのです。「バリバリ歯科医師をやってきて、子どもができて、『私、一体何?』という気持ちになったんです。でもこれまで自立してやってきた負けず嫌いな性格もあって、全部知っていないと気が済まない。7年ほど前、子どもが保育園や小学校に入るタイミングで酒造の仕事に入って、そこから一緒に働くようになりました。今はとても楽しいですよ」。
歯科医師の仕事も、諦めませんでした。「嫁いだときは、もう辞めなきゃいけないと思っていたんです。でも主人が『なんで辞める必要があるんだ』『まずこっちをやって、できるようになったらやればいいじゃん』と言ってくれて。ちょうど下呂市からお話をいただいて、今は母子保健の健診事業で歯科医師を続けています」。義母の勧めで唎酒師の資格も取得し、週末は店頭でお客様と語らう日々。「手に職を持って嫁いだ女将は、多分初めてのタイプかもしれません。ちょっと欲張りですけど(笑)」。保育園でお母さん向けの歯のセミナーを開けば、「天領の嫁」として親しまれ、酒蔵見学も頼まれるなど、二つの顔が、町の中で自然に溶け合うようになりました。
事業を通して叶えたい夢を尋ねると、上野田社長は静かにこう答えました。「酒を造りながら、この町を守り、関わってくださる人たちも一緒に創っていく。うちは345年ほど経ちますが、当時からずっと、町の発展とともにあったんだと思うんです。献酒の文化もそうですし、そういった文化を守りながら、とにかく家業を続けていくこと。それが一番の目標だと思っています」。
年間110万人が訪れる下呂温泉から、車でわずか10分。「その人たちをいかにこの町に呼び寄せるか」を考え、店は1月1日以外、年中無休で開けています。地元・萩原町には同世代の仲間がそれぞれに家業を継いで頑張っているそうで、「民泊を建て始めた後輩もいますし、これからだという気がしますね」。青年会議所、商工会青年部、法人会──町の会議体に顔を出しながら、社長の目線はいつも「町ごと盛り上げる」ことに向いています。
その挑戦を支えるのが奥様です。店頭に立ち、経理を担い、「秘書ですかね」という奥様に対し、社長はすかさず「司令塔です、司令塔(笑)」。「店の経営で手一杯だったら、町のことなんてなかなか考えられないですから」と、社長も全幅の信頼を寄せています。
そんな天領酒造が今、大きな話題を集めているのが、新銘柄「神調社」の挑戦です。345年前、滋賀県日野町の上野田(こうずけだ)という地域から日本中を行商して飛騨にたどり着いた近江日野商人・日野屋佐兵衛。それが天領酒造の、そして「上野田」という姓のルーツです。「近江日野商人の酒蔵は全国に15軒ほどあって、寄合で集まったとき、『今、日野の町の酒蔵がなくなりそうだ。誰か造ってくれないか』という話が出たんです。そのときは何も発言しませんでしたが、僕はずっと造りたいと思っていました」。
2年ほど前に日野町を訪ねると、町の酒蔵は休業状態。華やかな曳山が巡行する町の大きな祭りでは、ルーツも何もない他所のお酒が御神酒として上がっており、「それがすごく悲しい」と町の人たちが口にしていました。「僕もこの精神で生きてきたので。それなら、少しでもルーツのある僕が御神酒を造って、献酒として上げてもらったほうがいいんじゃないかと」。上野田エリアの祭りのグループの名を冠した「神調社」が完成したのは今年の4月。日野町の町長に届けると、ネット上でも大きな反響を呼びました。
さらに、酒造りで生まれる酒粕は日野町のクラフトビール醸造所へ。ふるさと納税や町の活性化に活かし、今後はそのビールを下呂に「逆輸入」する構想も動いています。345年の時を超えて、ふたつの町を酒が結び直す──歴史ある蔵の、真新しい挑戦です。
愛知学院の建学の精神「行学一体・報恩感謝」。社長にとってこの言葉との出会いは、高校の坂道にありました。「入学した当時、坂を登って通っていたんですが、入ったところに石碑があるんです。そこに書いてあって、なんだか心に響くなと思ったんです。語呂もよくて、すっと中に入ってくる。そのときからずっとですね」。
その言葉は、下宿生活の中で血肉になっていきました。「下宿していたときに『耐える』ということを覚えました。何でも一人なので、とにかく調べて動く。そういうことをやっていると自然と身についてきて。海外に行くことになったときも、人のご縁やつながりで生かされているんだなと感じると、やっぱり報恩感謝なんです」。町に帰って青年会議所の理事長を務めたときのスローガンも「報恩感謝」。「入会したときから、理事長になったらこれにしようと決めていました。助けられることが本当に多い。それに常に感謝して、ご縁をつないで、恩返しをしていく──そういうことだと思っています」。
意外な告白をしてくれたのは奥様です。「お恥ずかしながら、大学に通っているときはこの言葉をあまり知らなかったんです。大学1年生の宗教の授業くらいで。でも結婚したら、主人がよく呟くんですよ。『報恩感謝だ』って(笑)」。酒の文化とともに神様に感謝し、毎朝お仏壇に手を合わせる暮らし。「幼い頃から感謝を積み重ねてくると、こうなるんだなと感じました」。そして今年、ご長男が愛知中学に入学すると、講堂の真ん中に掲げられた「行学一体・報恩感謝」の文字を見て、こう言ったそうです。「パパが言っていた言葉が書いてあった」──。「12年間ずっと聞かされてきたものだから、息子にも染み付いています(笑)」。建学の精神は、世代を超えて受け継がれていました。
報恩感謝は、僕の人生のスローガンです。 ― 上野田又輔社長
最後に、愛知学院の後輩や若者へのメッセージをうかがいました。社長の答えは、自らの半生に裏打ちされたものでした。「僕自身、高校の時も何も夢がなくて。結果的にアメリカに行って気づいて、今この場所にいます。だからこそ、挑戦というか、積極的に物事を調べに行ったり、触りに行ったり、感じたり、食べたりすることは、すごく大切だと思うんです。僕はその中で『自分は日本人だ』ということを再認識できて。岐阜県とか愛知県とか、自分の生まれたところのルーツを意識してみると、迷っている人にも『これだ』という何かが見つかるんじゃないかと思います」。
「今は何でも調べられる時代で、調べるだけで満足してしまうこともある。でもやっぱり、実際に行って、見て、風を感じてみること。それが一番大事だと思います」。夢がないなら、まず動く。動いて、いろいろなものに触れる。そこから自己認識が生まれる──「家を継がない」と決めていた少年が蔵元になるまでの道のりそのものが、このメッセージの何よりの証明です。
奥様からは、愛知学院ならではのつながりの話をいただきました。「愛知学院大学の歯学部は、東海三県では一番卒業生が多いと思いますし、縦のつながりがとても強いんです。酒屋に嫁いだ今も、先輩方がお酒をたくさん購入してくださったり、歯科医師の会合に呼んでいただいてお酒のセミナーをやったり、新たなつながりが生まれています。こんなふうに、ずっと続くご縁ってなかなかありません。勉強はとにかく大変ですけど、卒業した後には、楽しいことも辛いことも共感して、相談に乗ってもらえる先輩・後輩が待っています。そのご縁を、ぜひ大切にしてほしいですね」。
愛知高校への進学を期に下呂を離れた少年は、遠回りの末に、誰よりもこの蔵と下呂の町を愛する蔵元になりました。そして、その傍らにいるのは、愛知学院が結んでくれた生涯の伴侶。ご縁に感謝し、恩を返しながら、酒をつくり、まちをつくり、人をつくる──345年の蔵の物語は、上野田夫妻によってこれからも続いていきます。